鴨長明の人生と生き方|方丈記に学ぶ人生哲学・伝えたいこと

「人間関係に疲れた」
「人生がうまくいかない」
「何もかも嫌になった」
800年以上の前の時代を生きた鴨長明も、こんな気持ちだったのかもしれません。
京都の世界遺産、「下鴨神社」の神職の家に生まれた鴨長明。
由緒ある神社の跡継ぎ候補として、裕福な家庭で育ちました。
住まいは豪邸だったでしょうが、晩年を過ごしたのは「方丈の庵」と呼ばれる約5.5畳の小屋。
方丈記は、その「方丈の庵」で書かれた随筆です。
世の中が嫌になり、人と関わらずに生きる道を選んだ鴨長明。
私自身もうつ病を患い、人間関係が嫌になってしまったことがあるため、鴨長明の生き方には大変共感しました。
今、世の中が生きづらいと感じている人にぜひ知ってほしい、鴨長明の人生を紹介します。
鴨長明の人生
父親の死をきっかけに人生が暗転
鴨長明が生まれたのは1155年ごろ。
平安時代末期。源氏と平氏の争いが激化し、1156年には保元の乱、1159年には平治の乱と、京都(平安京)の中で戦争が起こり、都が壊れ始めた頃です。
そんな不安な時代に、長明は下鴨神社の神職の家に生まれました。
下鴨神社といえば、世界遺産にも登録されている京都の有名な観光スポット。
参拝されたことがある方も多いかと思います。

父の名は鴨長継(ながつぐ)。
長継は下鴨神社の最高責任者である「正禰宜惣官(しょうねぎそうかん)」という地位に就いていました。
つまり、長明は下鴨神社の跡継ぎ候補であり、「お坊ちゃま」であったわけです。
しかし、長明が17歳の頃、父長継は若くして亡くなってしまいます。
長明は父の死を嘆き悲しみ、
原文
住みわびぬいざさは越えん死出の山さてだに親の跡を踏むべく
現代語訳
生きづらい。いっそ越えよう死出の山。せめて父の跡を踏めるように。
という歌を詠んでいます。
要するに、「父の後を追って死にたい」という自殺願望を表す歌です。
さすがにちょっと激しすぎる気もしますが、長明にとってはそれだけ偉大であり、後ろ盾となっていた父だったのでしょう。
父の死をきっかけに、長明の人生は暗転。
跡を継ぐはずだった正禰宜の位は親戚に奪われてしまい、長明に味方してくれる人は誰もいなくなってしまいました。
孤立した長明は、引きこもってしまいます。
出世のチャンスを親族につぶされてしまう
引きこもってからの長明は、和歌と琵琶に打ち込みます。
現実逃避だったのかもしれませんが、長明はその才能を開花させ、和歌の実力は後鳥羽上皇に認められるほどに。
なんと、新古今和歌集に載せる歌を選ぶ仕事に就くことになったのです。
そして、そこでの熱心な働きぶりが評価され、ついに後鳥羽上皇から河合神社の禰宜のポストを用意してもらえることに。
河合神社は下鴨神社に付属する神社で、父長継も禰宜を務めていたことがあります。

長明にとっては願ってもないチャンス。
「喜びの涙せきとめがたしきけしき」
と大喜びしますが、またも親戚の邪魔が入ってしまうんです。
当時の下鴨神社の最高責任者であった鴨祐兼(すけかね)が、長明がまだ神官としては未熟であるとして猛反対。
代わりに自分の子供である鴨祐頼(すけより)を推薦し、「これは神意だ」と言い張ってきたのです。
結局、後鳥羽上皇もその「神意」を無視することはできず、長明の就任は白紙に⋯⋯。
いよいよ世の中が嫌になってしまった長明は出家。
50歳の時でした。
それにしても、上皇の決定よりも「神意」が勝るとは、当時の神職はそれだけ強い立場だったのでしょうか。
移動式の小屋「方丈の庵」を製作
50歳で出家した長明は「蓮胤(れんいん)」という法名を名乗り、京都北東部の大原(京都市左京区)で隠遁生活を始めます。
しかし、大原での生活はあまり気に入らなかったようで、5年ほどで大原を出ることに。
その時に長明が製作したのが、「方丈の庵」です。
方丈とは、一丈四方の意味。
一丈は約3.03m。方丈は約9.18㎡で、約5畳半の広さ(4畳半は約7.29㎡)です。

しかも、方丈の庵は移動式。
簡単に解体でき、その土地が嫌になったらすぐ引っ越せるようにしていたのです。
この頃の長明は54~55歳。
当時の平均寿命を考えると、「死」を意識していたと思われます。
ずっと生きづらさを抱えていた長明は、心安らぐ場所で最期を迎えられるよう、自由に動きたかったのでしょう。
方丈の庵とともに、あちこち引っ越しを繰り返したのかもしれません。
日野の山中にて『方丈記』を執筆
そんな長明も、ようやく安住の地を見つけます。
京都南部の日野(京都市伏見区)にある、日野山の山中です。


最初はここも仮住まいのつもりだったようで、方丈記にはこう記されています。
原文
この所に住みはじめし時は、あからさまと思ひしかども、今すでに五年を経たり。
現代語訳
ここに住み始めた時は少しの間と思っていたのが、もう5年も経ってしまった。
嫌なことがあったら引っ越せばいいと思っていた長明も、ここではストレスなく過ごせたのでしょう。
長明は日野の地をとても気に入ったようで、『方丈記』もこの場所で執筆されました。
1212年、長明が58歳の頃です。
そして1216年、長明は62歳で亡くなります。
死因は不明ですが、方丈の庵で、人知れずひっそりと亡くなったのではないでしょうか。
鴨長明が生きた時代の背景
鴨長明が生きた時代は、平安時代から鎌倉時代へと変わる激動の時代。
源平合戦という名の戦争に加えて大きな災害も続き、はっきり言って悲惨な時代でした。
特に1177年から1185年にかけての9年間は、大火、竜巻、飢饉、大地震が立て続けに発生。
1177年:安元の大火
1180年:治承の辻風、以仁王挙兵、福原遷都、源頼朝挙兵
1181年:養和の飢饉(~1182年)、平清盛没
1183年:平家都落ち、木曽義仲入京
1184年:木曽義仲没、一の谷の合戦
1185年:平家滅亡、元暦の大地震
方丈記にも、その時の状況が詳しく書かれています。
安元の大火では平安京の3分の1が焼失し、公卿の立派なお屋敷も焼けてしまいました。
その3年後には治承の辻風が発生し、またも多くの家屋が倒壊。
辻風の2週間後には以仁王(もちひとおう)が平家打倒のために挙兵し、戦争で平安京はさらに荒れていきます。
極めつけは福原遷都。
平安京を福原(現在の神戸市兵庫区辺り)に移そうという計画で、平清盛の主導で進められました。
計画は難航し、わずか半年で京都に戻ることになりましたが、その間に放置された都はさらに荒廃。
その翌年には平清盛が「謎の熱病」で亡くなり、養和の飢饉が始まります。
養和の飢饉では、当時10万人ほどの人口だった京都で、4万人以上が餓死したそうです。
その3年後の1185年、壇ノ浦の戦いに敗れた平家が滅亡。
同年、平家滅亡から約4ヶ月後に元暦の大地震が平安京を襲います。
推定マグニチュードは7.4。1995年に起こった阪神・淡路大震災のマグニチュードが7.3ですので、それと同規模の大地震です。
戦争と災害が重なり、武士の時代へと移り変わる歴史の転換点。
このような時代の変化を目の当たりにした長明は、「無常観」という思想に至りました。
無常観とは
無常観とは、「すべてのものは常に移り変わり、生まれては消えていく」という思想です。
鴨長明が生きた時代は、戦争や災害によって人も住まいも泡のように浮かんでは消えていきました。
物理的なものだけでなく人々の記憶も薄れていき、数年も経てば大変な災難があったことを口にする人もいなくなってしまいます。
長明はこのような移り変わりを「むなしい」と感じていました。
方丈記の冒頭は、このような書き出しで始まります。
原文
ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。
現代語訳
河の流れは絶え間なく、元の水ではない。水面に浮かぶ泡は消えたり生まれたり、永く留まることはない。世の中の人も住まいも、これと同じようなものだ。
立派な豪邸を建てても、災害や戦争であっけなく崩れてしまいます。
都会は人の移り変わりも激しく、人間関係の悩みが尽きることもありません。
そんな「無常観」に至った長明が選んだ道は、人のいない山中での暮らしでした。
家も持ち物も最小限。
現代のミニマリストにも通じるような生き方ですね。
鴨長明の生き方に学ぶ現代の生き方
今の世の中はどうでしょうか。
今のところ日本では表立った戦争は起きていませんが、常に世界中のどこかで戦争をしていて、日本が巻き込まれる可能性も十分にあります。
東日本大震災や熊本地震など、大きな地震は絶えず起こり、南海トラフ地震もいずれは発生するでしょう。
人口は爆発的に増え、インターネットでもつながり、人間関係の悩みも増える一方。
こんな時代にこそ、鴨長明のような生き方も悪くないかと思います。
戦争や災害から生き残る確率を上げる
長明が残した一番の実績は、戦争や災害で「死ななかったこと」だと思います。
養和の飢饉だけでも、平安京では10万人中4万人以上、約4割の人が亡くなりました。
残りの6割の人が生き残ったのは、単純に食べ物があったからでしょう。
生きていくために本当に必要なものは、お金ではなく食べ物です。
食べ物がなくなれば、お金には何の価値もありません。
つまり、どんなにお金持ちでも、食べ物がなくなってしまえば死んでしまうのです。
人口の多い都会では食べ物の奪い合いになり、優しい人ほど食べ物にありつけなくなるでしょう。
でも、人里離れた農村や山に入れば、そのような争いを避けることができます。
山で食べ物を探したり、田畑を耕したりして、自給自足することも可能です。
戦争が起きた時も、都会よりも田舎の方が生き残る確率は高いでしょう。
疫病も人が多いところほど感染する確率は高くなります。
今の時代も、明らかにおかしな方向へと進んでいますよね。
戦争も災害も疫病も、何も起きないと考える方が難しい。
とは言え、鴨長明のようにすべてを捨てて山に入るのは、そう簡単ではありませんよね。
自宅の庭やベランダで家庭菜園を始めたり、缶詰や玄米などを備蓄したり、できることから始めてみてはいかがでしょうか。
これからはお金を稼ぐことよりも、少しでも生き残る確率を上げられるような生き方が重要ではないかと思います。
人間関係のストレスを減らす
アドラー心理学では、「すべての悩みは対人関係の悩みである」と言われています。
「仕事がつまらない」、「会社に行きたくない」といったストレスも、突き詰めれば対人関係のストレス。
私も「今日あの人に会うの嫌だなぁ」とか「この人いつも機嫌悪いなぁ」とか、苦手な人のことばかり考えていました。
鴨長明が方丈の庵に引きこもったのも、人間関係が嫌になったのが一番の理由でしょう。
私もうつ病になってから人間関係が嫌になり、Facebookを突然やめたり、LINEのグループチャットから抜けたりして、人間関係を何度もリセットしてきました。
それで精神的には楽になりましたが、失うものが多すぎるので、おすすめはできません。
実際、「社会でもっとうまくやりたかったなぁ」と未練タラタラです。
『方丈記』を読むと、鴨長明も社会への未練を抱えていたように思います。
一人になった自分を必死に正当化しようとしている感じが、ひしひしと伝わってくるのです。
確かに、人間関係を減らせばストレスも減ります。
でも一人になってしまうと、人生にむなしさを感じてしまいます。
人間関係を見直すことは大切ですが、くれぐれもやり過ぎないようにお気をつけください。
嫌なことから逃げる
人によっては、鴨長明は「負け犬」だと感じられるかもしれません。
父親の死後、和歌や琵琶に打ち込んだのは現実逃避とも言えますし、実際のところ仕事をしていないのでニートみたいなものです。
出家したと言っても寺院で本格的に修行に励んだわけではなく、ただ社会との関わりを断ちたかったのでしょう。
でもそうやって逃げ続けたことで、鴨長明は自分らしい暮らしを見つけました。
社会では負け組でも、人生においては勝ち組。
今も昔も、自分らしく幸せな人生を送れる人はそう多くないと思います。
私もうつ病で会社を辞めた時、「人生終わった」って思いました。
今でも社会的には負けてると思います。
でも、今の方がずっと幸せです。
もっと早く逃げていれば、うつ病にもならず、もっと幸せになれたんじゃないかと思います。
死んで逃げるのは最後の手段。
会社を辞めても死ぬことはありませんし、お金がなくなっても生活保護で何とかなります。
逃げ続けていれば「逃げたい」と思うこともなくなり、「生きたい」と思えるようになります。
死にたいと思うほどに嫌なことがあるなら、逃げて自分の命を守りましょう。

参考



京都学問研究所 京都学問所紀要 創刊号『鴨長明方丈記完成800年』
