鴨長明『方丈記』原文と現代語訳(九) ~ 閑居の気味 ~

原文
おほかた、この所に住みはじめし時はあからさまと思ひしかども、今すでに五年を経たり。仮の庵もややふるさととなりて、軒に朽葉深く、土居に苔むせり。おのづから、ことのたよりに都を聞けば、この山に籠り居て後、やむごとなき人のかくれ給へるもあまた聞こゆ。まして、その数ならぬたぐひ、尽くしてこれを知るべからず。たびたび炎上に滅びたる家、またいくそばくぞ。ただ仮の庵のみ、のどけくして恐れなし。ほど狭しといへども、夜臥す床あり。昼居る座あり。一身を宿すに不足なし。寄居は小さき貝を好む。これ事知れるによりてなり。みさごは荒磯に居る。すなはち、人を恐るるがゆゑなり。われまたかくのごとし。事を知り、世を知れれば、願はず、わしらず、ただ静かなるを望みとし、憂へなきを楽しみとす。
すべて、世の人の栖を作るならひ、必ずしも事のためにせず。或は妻子、眷属のために作り、或は親昵、朋友のために作る。或は主君、師匠、および財宝、牛馬のためにさへ、これを作る。われ今、身のために結べり。人のために作らず。ゆゑいかんとなれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべき人もなく、頼むべき奴もなし。たとひ、広く作れりとも、誰を宿し、誰をか据ゑん。
夫、人の友とあるものは、富めるをたふとみ、ねむごろなるを先とす。必ずしも情あると、すなほなるとをば愛せず。ただ、糸竹花月を友とせんにはしかじ。人の奴たるものは、賞罰はなはだしく、恩顧あつきを先とす。さらに、育みあはれむと、安く静かなるとをば願はず。ただ我が身を奴婢とするにはしかず。
いかが奴婢とするならば、もし、なすべき事あれば、すなはち、おのづが身を使ふ。たゆからずしもあらねど、人を従へ、人をかへりみるよりやすし。もし、歩くべき事あれば、みづから歩む。苦しといへども、馬、鞍、牛、車と、心を悩ますにはしかず。
今、一身を分ちて二つの用をなす。手の奴、足の乗り物、よくわが心にかなへり。身、心の苦しみを知れれば、苦しむ時は休めつ、まめなれば使ふ。使ふとても、たびたび過ぐさず。物憂しとても、心を動かす事なし。いかにいはむや、常に歩き、常に働くは、養生なるべし。なんぞ、いたづらに休みをらん。人を悩ます、罪業なり。いかが、他の力を借るべき。
衣食のたぐひ、また同じ。藤の衣、麻の衾、得るにしたがひて、肌をかくし、野辺のをはぎ、峰の木の実、わづかに命を継ぐばかりなり。人に交はらざれば、姿を恥づる悔いもなし。糧乏しければ、おろそかなる報をあまくす。すべて、かやうの楽しみ、富める人に対して言ふにはあらず。ただわが身ひとつにとりて、昔、今とをなぞらふるばかりなり。
夫、三界はただ心ひとつなり。心もしやすからずは、象馬七珍もよしなく、宮殿楼閣も望みなし。今、さびしき住まひ、一間の庵、みづからこれを愛す。おのづから都に出でて、身の乞匈となれる事を恥づといへども、帰りてここにをる時は、他の俗塵に馳する事をあはれむ。
もし、人、この言へる事を疑はば、魚と鳥とのありさまを見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居の気味も、また同じ。住まずして誰かさとらむ。
現代語訳
そもそも、この場所に住み始めた時はほんの少しの間と思っていたけれど、もうすでに五年も経ってしまった。仮の庵もしだいに住みなれた家となり、軒には朽ち葉が深く積もり、土台には苔が生えてきた。たまたま、何かのついでに都の様子を聞くと、この山に籠もって以後、身分の高い人がお亡くなりになったという話もたくさん耳にする。まして、その数にも入らない類の人々は、すべてを数え知ることはできない。たびたびの火災で滅んだ家はまた、どれほどであろうか。ただただ、仮の庵だけが穏やかで、何の恐れもない。家が狭いとは言え、夜寝る場所も、昼に生活する場所もある。我が身一つを宿らせるに不足はない。ヤドカリは小さな貝殻を好む。これは事情をよく知っているからである。ミサゴは荒磯に棲む。それはつまり、人を恐れているからである。私もまたこのようである。身の程を知り、世間を知っているので、願わず、急がず、ただ静かであることを望み、憂いのないことを楽しみとしている。
だいたいにおいて、世の人が住まいを作るのは、必ずしも一大事のためではない。ある人は妻子や一族のために建て、ある人は親しい人や友人のために建てる。ある人は主君、師匠、さらには財宝や牛馬のためにまで建物を建てる。私は今、自分の身のために作った。人のために作ったのではない。理由は何かと言うと、今の世のあり方、我が身のありさまからして、連れ添う人もなく、頼りにすべき召使いもいない。たとえ広く作ったとしても、誰を泊めて、誰を住まわせようというのか。
そもそも、人の友というものは、裕福な人を尊敬し、しきりと親密そうにすることを第一とする。必ずしも情けのある人や心の真っ直ぐな人を愛するわけではない。ただ、音楽と自然を友にするに越したことはない。人の召使いであるものは、恩賞が格別に多く、恩恵の厚いことを第一とする。決してやさしくいたわってくれる主人や、安らかで静かな生活を願うことはない。
ただ自分の身を奴婢とすることには及ばない。どのようにして奴婢にするかと言うと、もしやるべき事があればすぐに自分の体を使う。疲れないこともないが、人を雇い、人の面倒をみるよりは楽である。もし、歩かないといけない時は、自分の足で歩く。苦しいと言っても、馬、鞍、牛、車に心を悩ますほどではない。
今、私は我が身を分けて二つの働きをする。手は召使い、足は乗り物であり、私の思い通りに動く。体は心の苦しみをわかっているから、苦しい時は休めて、元気な時は体を使う。使うと言っても、酷使することはない。心が重いからといって動揺することはない。それにしても、毎日歩き、毎日働くのは養生となる。どうして無駄に休んでいられようか。人を悩ますのは罪業である。どうして他人の力を借りられようか。
衣服や食事もまた同じである。藤の衣装や麻の寝具は、手に入れるにしたがって肌を隠し、野原のヨメナや峰の木の実はわずかに命をつなぐ程度の量である。人と交流することがなければ、自分の姿を恥じることもない。食糧が乏しいので、粗末な物も美味しく感じられる。すべて、このような楽しみは裕福な人に対して言っているのではない。ただ、私一人にとって、昔と今を比べているだけである。
おおよそ、この世界は心の持ちようである。心がもし安らかでなければ、象や馬、珍しい宝物も無益であり、宮殿や楼閣への望みもない。今、この物寂しい住まい、一間の庵、自分はこれを愛する。たまに都へ出て、我が身が乞食となっていることを恥じかしく思うことはあるけれども、帰宅してここに居る時は、他人が俗世間の煩悩にまみれていることを気の毒に思う。
もし、この発言を疑う人がいるならば、魚と鳥の様子を見よ。魚は水に飽きることはないが、魚でなければその気持ちはわからない。鳥は林を好むが、鳥でなければその気持ちはわからない。閑居の良さも同じで、住んでみないことには誰にもわからない。