鴨長明『方丈記』原文と現代語訳(八) ~ 方丈の庵の生活 ~

原文
ここに、六十の露消えがたに及びて、さらに末葉の宿りを結べる事あり。いはば旅人の一夜の宿を作り、老いたる蚕のまゆをいとなむがごとし。これを中ごろの住みかにならぶれば、また百分が一に及ばず。とかくいふほどに齢は歳々に高く、住みかは折々に狭し。その家のありさま、世の常にも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。所を思ひ定めざるがゆゑに、地を占めて作らず。土居を組み、うちおほひを葺きて、継目ごとにかけがねをかけたり。もし、心にかなはぬ事あらば、やすく外へ移さむがためなり。その改め作る事、いくばくの煩ひかある。積むところ、わづかに二両。車の力を報ふほかには、さらに他の用途いらず。
今、日野山の奧に跡を隠して後、東に三尺余りの庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。南、竹のすのこを敷き、その西に閼伽棚を作り、北に寄せて障子をへだてて、阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかき、前に法花経を置けり。東の際に蕨のほとろを敷きて、夜の床とす。西南に竹の吊り棚を構へて、黒き皮籠三合を置けり。すなはち、和歌、管絃、往生要集ごときの抄物を入れたり。かたわらに琴、琵琶、おのおの一張を立つ。いはゆる折琴、継琵琶これなり。仮の庵のありやう、かくのごとし。
その所のさまをいはば、南に懸樋あり。岩を立てて、水をためたり。林の木近ければ、爪木を拾ふに乏しからず。名を音羽山といふ。まさきのかづら、跡埋めり。谷しげけれど、西晴れたり。観念のたよりなきにしもあらず。
春は藤波を見る。紫雲のごとくして西方ににほふ。夏は郭公を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。秋はひぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世を悲しむほど聞こゆ。冬は雪をあはれぶ。積もり消ゆるさま、罪障にたとへつべし。
もし、念仏もの憂く、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづからおこたる。さまたぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、独り居れば口業を修めつべし。必ず禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ何につけてか破らん。
もし、跡の白波にこの身を寄する朝には、岡の屋に行き交ふ船をながめて満沙弥が風情をぬすみ、もし、桂の風、葉を鳴らす夕には、潯陽の江を思ひやりて、源都督の行ひをならふ。もし、余興あれば、しばしば松の響に秋風楽をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。芸はこれつたなけれども、人の耳をよろこばしめむとにはあらず。ひとり調べ、ひとり詠じて、みづから情を養ふばかりなり。
また、麓に一つの柴の庵あり。すなはち、この山守がをる所なり。かしこに小童あり。時々来たりて、あひとぶらふ。もし、つれづれなる時は、これを友として遊行す。かれは十歳、これは六十。その齢ことのほかなれど、心を慰むること、これ同じ。
或は茅花を抜き、岩梨を取り、零余子を盛り、芹を摘む。或はすそわの田居にいたりて、落穂を拾ひて、穂組を作る。もし、うららかなれば、峰によぢのぼりて、はるかにふるさとの空をのぞみ、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地は主なければ、心を慰むるにさはりなし。
歩み煩ひなく、心遠くいたる時は、これより峰つづき、炭山を越え、笠取を過ぎて、或は石間に詣で、或は石山を拝む。もしはまた、粟津の原を分けつつ、蝉歌の翁が跡をとぶらひ、田上河をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。帰るさには、折につけつつ桜を狩り、紅葉をもとめ、蕨を折り、木の実を拾ひて、かつは仏にたてまつり、かつは家づとにす。
もし、夜静かなれば、窓の月に故人をしのび、猿の声に袖をうるほす。草むらの蛍は遠く槙の篝り火にまがひ、暁の雨はおのづから木の葉吹く嵐に似たり。山鳥のほろと鳴くを聞きても、父か母かと疑ひ、峰の鹿の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかるほどを知る。或はまた、埋み火をかきおこして、老の寝覚の友とす。恐ろしき山ならねば、梟の声をあはれむにつけても、山中の景気、折につけて尽くる事なし。いはむや、深く思ひ、深く知らむ人のためには、これにしも限るべからず。
現代語訳
さて、六十歳という露の消え時に及んで、改めて枝先の葉のようにはかない住まいを作ることになった。言うなれば旅人が一晩を過ごすだけの宿を作り、年老いた蚕がまゆを編むようなものだ。これを生涯の中頃に住んでいた家と比べれば、百分の一にも及ばない。とか言っているうちに年齢は上がり、住まいはだんだん狭くなる。その家の様子は世間一般的ではない。広さはわずか方丈、高さは七尺もない。場所を決めてはないので、土地を占有して作るものではない。土台を組み、簡単な屋根を付けて、継ぎ目ごとに掛け金をかけた。もし、気に入らないことがあった時に、簡単に他の場所へ引っ越せるようにするためである。家を改めて作り直すことにどれほどの面倒があろうか。家を解体すると車二台で積める。輸送費を払う以外にかかる費用はない。
今、日野山の奥に隠れ住んでからは、東側に三尺余りの庇をかけて、柴を折って焚き火をする場所とする。南側には竹の簀子を敷き、その西側に閼伽棚を作り、北側に寄せて障子をへだてて、阿弥陀の絵像を安置し、そのそばに普賢菩薩の絵像をかけ、前に法華経を置いている。東側の端に蕨のほどろを敷いて、夜寝る場所とする。西南の方に竹の吊り棚を取り付けて、黒い皮の籠を三つ置く。その中には、和歌、管弦、往生要集などの書物を入れている。そのそばに琴と琵琶を一本ずつ立てかける。仮の庵の様子はこのようである。
その場所の様を言うなら、南側に水を引く桶があり、岩を立てて水を溜めている。林の木は近くにあるので、薪を拾い集めるのに不足はない。名を音羽山と言う。まさきのかづらが足跡を埋め、谷は草木が生い茂っているが西の方は見晴らしが良い。極楽浄土を思う便宜がないわけではない。
春は藤の花を見る。紫色の雲のように、西方に美しく咲き誇る。夏はホトトギスの鳴き声を聞く。鳴く度に死出の山への道案内を約束してくれる。秋はヒグラシの声が耳を満たす。はかない世をあわれんでいるように聞こえる。冬は雪を眺める。積もっては消えていく様子は、人間の罪障にもたとえられる。
もし、念仏が面倒で、読経に気が入らない時は、気ままに休み、気ままにサボる。それをとがめる人もいないし、恥ずかしいと思う相手もいない。わざわざ無言の修行をしているわけではないけれど、一人で居るから勝手に修められる。必ずしも禁戒を守ろうとしているわけではないけれど、心惑わすものがないのにどうして破れようか。
もし、船の跡の白波に我が身をなぞられる朝には、岡の屋に行き交う船を眺めて満沙弥の歌の風情を真似し、桂の木に吹く風が葉音を鳴らす夕方には、潯陽の江に思いを馳せ、源経信の演奏に倣う。もし、それでも興味が尽きなければ、何度も松風の響きに秋風楽の曲を合わせて演奏し、水の音に合わせて流泉の曲を弾く。演奏のレベルは拙いけれど、誰かの耳を喜ばせるためではない。一人で弾き、一人で歌って、自分の心を慰めるだけである。
また、日野山の麓に一軒の柴の庵があった。それはこの山の管理人が住んでいる家である。そこにいる子供が時々訪ねてくる。もし、何もやることがない時は、この子供を友として遊びに行く。彼は十歳、私は六十歳。その年齢はあまりにも離れているけれど、心を慰めることは同じである。
ある日は茅花を抜き、岩梨を取り、零余子を盛り、芹を摘む。ある日は山裾の田んぼに行き、落穂を拾って穂組みを作る。もし、天気が良ければ峰に登り、はるか遠くの故郷の空を眺め、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。景色の素晴らしい地に持ち主はなく、心を楽しませるのに妨げはない。
歩くのがきつくなく、心が遠くまで思い至る時は、そのまま峰続きに炭山を越え、笠取を過ぎて、岩間寺に詣でたり、石山寺を拝んだりする。もしくはまた、粟津の原を分け入り、蝉歌の翁の旧跡を訪れ、帰り道では季節に応じて桜を楽しみ、紅葉を探し、蕨を取り、木の実を拾い、一部は仏にお供えし、一部は我が家へのお土産とする。
もし夜が静かな時は、窓の月を眺めて故人をしのび、猿の鳴き声を聞いては涙で袖を濡らす。草むらの蛍は遠く槙島の篝火に見間違えるほどで、明け方の雨は自然と木の葉を吹く嵐に似ている。山鳥がホロホロと鳴く声を聞くと、我が父か母かと思い、峰の鹿が慣れて近寄ってくるにしたがい、世から遠ざかっていることを知る。ある時はまた、灰の中に埋めた火をかきおこして、年老いて目覚めがちな夜の友とする。恐ろしい山ではないので、梟の鳴き声をしみじみ聞くことにつけても、四季折々につけて飽きることはない。ましてや、情緒を深く思い、深く知っている人にとっては、これだけに限ることではない。