古典

鴨長明『方丈記』原文と現代語訳(四) ~ 福原遷都 ~

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原文

 また、治承ぢしやう四年づきのころ、にはかに都うつはべりき、いと思ひのほかなりし事なり。

 おほかた、この京のはじめを聞ける事は、の天皇の御時、都と定まりにけるよりのち、既に四百余歳を経たり。ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、安からずうれへあへる、にことわりにも過ぎたり。

 されど、とかくいふかひなくて、みかどよりはじめ奉りて、大臣、公卿、みなことごとく移ろひたまひぬ。世につかふるほどの人、たれか一人、ふるさとに残りらむ。つかさくらいに思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりともとく移ろはむとはげみ、時を失ひ世に余されて、する所なき者は、うれへながらとまりり。のきを争ひし人の住まひ、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれてよどがはに浮かび、地は目の前にはたけとなる。人の心、みな改まりて、ただ馬、くらをのみ重くす。牛、車を用する人なし。西さいなんかい領所りやうしょを願ひて、とうぼく庄園しやうゑんを好まず

 その時、おのづから事のたよりありて、津の国の今の京に至れり。所のありさまを見るに、その地、ほどせばくて条里を割るにたらず。北は山にそひて高く、南は海近くてくだれり。波の音、常にかまびすしく、潮風ことにはげし。内裏は山の中なれば、かの木のまろ殿どのもかくやと、なかなかやうかはりて、いうなるかたもはべり。日々にこほち、川もに運びくだす家、いづくに作れるにかあるらむ、なほむなしき地は多く、作れるは少なし。古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は、皆浮雲の思ひをなせり。もとよりこの所にる者は、地を失ひてうれふ。今移れる人は、土木のわづらひある事をなげく。道のほとりを見れば、車に乗るべきは馬に乗り、くわんなるべきは多くひたたれを着たり。都のりたちまちに改まりて、ただひなびたる武士もののふことならず。

 世の乱るるずいさうとか聞けるもしるく、日をつつ世の中浮き立ちて、人の心もをさまらず。民のうれへ、つひにむなしからざりければ、同じき年の冬、なほこの京に帰りたまひにき。されど、こぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、ことごとくもとのやうにしも作らず。

 伝え聞く、いにしへの賢きには、あはれみをもつて国ををさめ給ふ。すなわち、殿にかやふきても、のきをだにととのへず。煙のともしきを見給ふ時は、限りある貢物みつぎものをさへゆるされき。これ、民を恵み、世を助け給ふによりてなり。今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。

現代語訳

 また、治承4年(1180年)6月頃、突然都が遷されるという、まったく思いもよらない出来事がありました。

 おおよそ、この京の始まりについて聞き知っていることは、嵯峨天皇の御代に都と定められてから既に400年余りが経っている。特別な理由もなく、簡単に遷都できるはずもないので、世の人々が不安に思い、心配し合うのは、いかにも当然過ぎることであった。

 しかし、あれこれ言うかいもなく、天皇をはじめとして、大臣、公卿、みなことごとくお移りになっていった。朝廷に仕えるほどの人は、誰一人、旧都に残って居られようか。官位に望みをかけ、主君の恩顧を頼みにするような人は、一日でも早く移ろうと懸命になっている。時流に乗り遅れ、世間から取り残されて何のあてもない人は、嘆きながら旧都に残っていた。軒を争っていた人の住まいは日に日に荒れていく。家は解体されて淀川に浮かび、宅地は目の前でさら地となった。人々の心はすっかり変わってしまい、馬や鞍を重んじるばかり。牛や牛車を必要とする人はいない。西南海の領地を求め、東北の荘園を好まない。

 その時、たまたま用事のついでがあり、摂津の国にある新しい都に行った。その場所の様子を見ると、土地が狭くて区画を割り当てるには足りない。北側は山沿いで高く、南側は海が近く、下っている。波の音が常に騒がしく、潮風はことのほかひどい。内裏は山の中にあるので、かつての木の丸殿はこんな風だったのかと、かえって様式が変わり、優雅なところもあります。毎日のように解体され、川もいっぱいになるほど運び流された都の家々は、どこに作ったのだろうか。今もなお空いている土地は多く、建築された家は少ない。

 旧都は既に荒廃してしまい、新都はいまだに完成していない。ありとあらゆる人はみな、浮雲のような不安をいだいている。昔からこの場所に住んでいる者は、土地を失って悲しむ。新しく移った人は、土木工事の苦労を嘆いている。道端を見ると、牛車に乗るべき人が馬に乗り、衣冠、布衣を着るべき人の多くが直垂を着ている。都の風俗はたちまちに変わり果て、ただの田舎くさい武士たちと変わらない。

 世が乱れる前兆と聞いていたとおり、日を追うごとに世の中は騒々しくなり、人の心も落ち着かない。民衆の憂いはついに空しいものではなくなり、同じ年の冬、再び京にお帰りになられた。しかし、一面に壊された家々はどうなってしまったのだろうか。全部を元のように建て直すことはない。

 伝え聞くところでは、昔の賢い帝の御代には、慈愛を持って国を治められた。すなわち、宮殿に茅を葺いても軒先を整えることなく、かまどの煙がとぼしいのをご覧になった時は、限られた租税までもお許しになった。これは民衆に恵みを与え、世を救済しようとなされたからである。今の世のありさまは、昔と比べればわかるだろう。

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ティラノ芹沢
ティラノ芹沢
住宅街の小さな畑で家庭菜園と養鶏を楽しんでいます。メインは有機農法。自然栽培、放任栽培で育てている野菜もあります。うつ病をきっかけにフリーランスへ転身。お金よりも健康。半農半Xな暮らしを目指しています。
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