鴨長明『方丈記』原文と現代語訳(十) ~ みづから心に問う ~

原文
そもそも、一期の月影傾きて、余算の山の端に近し。たちまちに三途の闇に向かはんとす。何のわざをかかこたむとする。仏の教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。今、草庵を愛するも、閑寂に着するも、さばかりなるべし。いかが要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさむ。
静かなる暁、このことわりを思ひつづけて、みづから心に問ひていはく、世を遁れて山林に交はるは、心を修めて道を行はむとなり。しかるを、汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり。栖はすなはち、浄名居士の跡をけがせりといへども、たもつところはわづかに周梨槃特が行にだに及ばず。もしこれ貧賤の報のみづから悩ますか、はたまた妄心のいたりて狂せるか。その時、心、、さらに答ふる事なし。ただかたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ。
時に建暦の二年、弥生のつごもりころ、桑門の蓮胤、外山の庵にして、これをしるす。
現代語訳
さて、私の一生の月影も傾き、余命は山の端に近づいている。たちまち三途の闇の中へと向かおうとしている。何事について嘆こうか。仏がお教えになる言葉の趣は、何事においても執着心を持つなということである。今、草庵を愛することも、閑寂に執着することも、このぐらいにしておくべきであろう。どうして必要もない楽しみを述べて、もったいない時を過ごそうか。
静かな明け方、この道理を考え続けて、自らの心に問う。言うには、世間から逃げて山林にまぎれこむのは、心を落ち着かせて仏道を修行しようとするためである。それなのに、お前は姿こそ僧であっても、心は煩悩にまみれている。住まいはつまり、浄名居士の跡をまねていると言うけれども、保っているところはわずかに周梨槃特の修行にも及ばない。もしかしてこれは、貧乏で賤しい自分への報いが自らを悩ませるのか、それとも迷妄の心が極まって狂わせているのか。その時、その心は、これ以上答えることもない。ただのついでに舌を使って、不請阿弥陀仏をニ、三遍申して止めた。
時に、建暦の二年、三月の末頃、沙門の蓮胤、外山の庵にてこれを記す。