ツァンジンコン事件

「ツァンジンコン! ツァンジンコン!」

いきなり店員が私の目の前に座り、大声で連呼してきた。

まだ料理も頼んでいない。

店に入って、覚えたての中国語で「イーガレン(一人です)」と言っただけだ。

そのたった一言の発音が下手すぎて、日本人だとわかったのだろう。

「ツァンジンコン」の意味はまったくわからない。

わからないけど、たぶん、日本人をディスる言葉に違いない。

(ヤバい。怖い。何かあったら会社から怒られる⋯⋯)

海外研修性として上海に派遣されて、まだ2週間足らず。

早々にトラブルを起こしてしまっては、駐在員からのイメージがすこぶる悪くなるだろう。

トラブルは絶対に避けたい。

黙って席を立とうとすると、店員がニヤニヤしながらスマホを見せてきた。

(日の丸を燃やす動画でも見せられるんだろうか⋯⋯)

と思いきや、画面には映っていたのはなんと、私がよくお世話になっていた女性だった。

私が上海に渡ったのは今からちょうど10年前、2012年9月2日。

着いた初日は四川料理をご馳走になり、この豚肉の冷菜があまりに美味しくて感動したのを覚えている。

研修生という立場とは言え、新卒で入社した時から夢見ていた海外駐在への第一歩である。

今までに感じたことのないほど気持ちが高ぶっていた。

しかも、これから約10ヶ月間は中国語の学習のため、上海の大学に留学することになっていた。

お金がなくてバイトしまくっていた大学生活とは違う。

会社のお金で留学し、お給料まで頂けるのだ。

私は心から会社に感謝した。

生涯をかけて、会社に尽くそうと誓った。

それが帰国後2年も経たないうちに転職してしまうわけだが、その話はまた別でしようと思う。

大学には世界中から留学生が集まっていた。

私のクラスだけでもタイ人、フランス人、ドイツ人、イタリア人、スペイン人、ブラジル人、ロシア人、カザフスタン人、そして日本人が私を含めて5人。

私は英会話教室に3年も通ったのに英語が話せないという体たらくっぷりを発揮していたが、ニコニコしていたら何となく仲良くなれた。

こういうのは割と得意だ。

一点のかげりもない、順調なすべり出し。

刺激的で充実した毎日を送っていたが、わずか10日足らずであの事件が起こってしまった。

2012年9月11日、尖閣諸島国有化。

日本では「中国のあちこちで激しい反日運動が起きている」とセンセーショナルに報道されていたようで、友人からもFacebookで安否を心配するメッセージが届いた。

会社によっては駐在員を一時帰国させていたし、私も会社から外出禁止のお達しを受けていた。

しかし、現地では反日の空気をまったく感じなかったので、私は普通に出歩いていた。

「ツァンジンコン事件」は、そんな矢先の出来事であった。

店員が見せてきた画像は、たしかに私がよく知っている人だった。

私だけではない。

私と同世代の日本人男性なら、誰しもがお世話になったことがあるであろう。

しかし、「ツァンジンコン」の意味がわからない。

呆然としていると店員はさらに近づき、ついに私の肩にまで手を回してきた。

(キ⋯⋯キツい⋯⋯早く⋯⋯去りたい)

私のパーソナルスペースは、ソーシャルディスタンスよりも広い。

たとえ気の知れた友人であっても、肩を組むなど無理なのだ。

私は感情が顔に出てしまうので、相当嫌そうな顔をしていたと思う。

でもそんなことはお構いなしに、「ツァンジンコン! ツァンジンコン!」と連呼してくる店員。

「なんで伝わらないんだ?」みたいな顔をしているのがムカつく。

目の前で大声を出されて、冷静に考えることなどできるわけがなかろう。

人に何かを伝えたいのなら、大声で近づくのではなく、優しく歩み寄るべきだ。

何度聞いてもわからないので、「シェイーシャ(書いてください)」と、携帯していたメモ用紙とペンを渡した。

すると「あぁ~その手があったか」みたいな顔をしてきたので、さらにムカついた。

しかし、店員が紙に書いてくれた文字を見て、そんな感情は一気に吹き飛んでしまった。

苍井空

なんと美しい、平和な字面なんでしょう。

私は思わず、「あぁーっ! あおいそらね!!!」と日本語で叫んだ。

蒼井そらが中国で人気があるらしい、というのは聞いていた。

でも中国人が日本人に会って、真っ先に画像を出してくるほどの人気だとは思っていなかった。

そして何よりも平和だった。

私と店員は笑顔になり、会話はできなくても心は通じていたと思う。

蒼井そらが駐中国大使になればいいと思った。

その後も店員は一生懸命話しかけてきたが、その時の私の中国語レベルではまったく聞き取れなかった。

食事を済ませ(普通に美味しかった)、「彼は何を話したかったんだろう?」と考えながら歩いて帰った。

(蒼井そらについて、中国人が日本人に聞きたいことって何だろうか⋯⋯)

そう考えるとおそらく、「蒼井そらの動画はないのか?」というようなことを聞かれていたのだと思う。

中国では、日本で見られるような動画を普通には見ることができない。

もし私が彼の立場だったら、どうしても見たいと思うだろう。

動画をダウンロードして見せに行こうかとも思ったが、なぜかその店員に会うことは二度となかった。

そう言えば当時、「钓鱼岛是中国的! 苍井空是世界的!」というフレーズが流行っていた。

「(尖閣諸島の)魚釣島は中国のもの! 蒼井そらは世界のもの!」という訳だ。

後者に異論はない。